Oさん(20代 女性/X染色体連鎖性低リン血症性くる病・骨軟化症)

FGF23関連低リン血症性くる病・骨軟化症と診断された患者さんの体験談です。実際の症状や経過には個人差があります。
気になる症状がある方は医師にご相談ください。また必ずしも同じ症状がFGF23関連低リン血症性くる病・骨軟化症と診断されるとは限りません。

Oさん(20代 女性/X染色体連鎖性低リン血症性くる病・骨軟化症)

Oさん(20代 女性/X染色体連鎖性低リン血症性くる病・骨軟化症)

職業:事務職
現在同居の家族:父、母、兄1人、姉1人

同じ病気の姉の存在が大きな支えに
「仕事の選択の幅を広げるためにも勉強をがんばって」

診断と治療の流れ

姉が同じ病気だったため、生まれてすぐに診断を受け、小児病院への通院を始める。
3歳から装具での治療を開始

足を曲げられないことによる歩きづらさを記憶

私には1歳上の姉がいます。姉が1歳を過ぎても歩き出さなかったことから、小児病院を受診したところ、この病気であることが分かったそうです。私は姉が診断を受けた直後くらいに生まれ、父も同じ病気だったことから、私も検査を受けたところ、父や姉と同じ病気であることが分かりました。この小児病院は、父も子どもの頃に受診していたところで、私も成人するまで通院と薬物治療を行っていました。

装具を着け始めたのは3歳ぐらいです。骨盤から足の先まで、左右1本ずつ着けていました。装具を着けることについては、父が自身のO脚を見せながら「こうならないように着けているのだよ」と説明してくれたので、理解していました。装具は夜だけ着けていたのですが、その頃は骨の変形による痛みというより、装具の装着によって足を曲げることができないので歩きづらかったことのほうが記憶に残っています。

point

  • 父と姉も同じ病気だったため、生まれてすぐに診断を受ける
  • 骨の変形による痛みよりも装具の装着による歩きづらさを感じる

小学校2年生から足が曲がり始める

運動するたびに膝を金づちで叩かれているような痛み

小学校2年生になった頃から足が曲がり始めました。この頃になると、装具の装着による歩きづらさよりも、足や骨の変形による痛みのほうが勝ってきました。座席から立ち上がってもすぐに歩けませんでしたし、膝や足首の痛みが常にありました。友達同士で追いかけっこをするときや運動会はとてもつらく、膝を金づちで叩かれているような感じでした。

ただ、両親や学校の先生は、私に普通の子どもと同じようなことをさせてあげたいと思っていたようで、私の膝や足首の痛みを理解しつつ「もう少しだけがんばってみよう」と、できるだけ運動に参加するよう私を促していました。そのときは痛みを我慢することがつらかったのですが、当時を振り返ると、リレーマラソンでたすきをつなげたときの嬉しさなどをよく覚えています。いまは公園で自分から走ってみたりするようになるなど、運動に対する苦手意識はそれほどありません。子どもの頃に運動の楽しさを知ることができました。

point

  • 座席から立ち上がってもすぐに歩き出せず、膝や足首に常に痛み
  • 少し我慢してでも運動をがんばったことで、運動の楽しさを知る

周囲の視線や友達のひと言が大きな悩みに

いつもそばで支えてくれた姉の存在

日常生活では、曲がり始めた私の足に向けられる周囲の視線や、「曲がっているね」という友達のひと言に傷ついていました。O脚もひどく、普通に立っている状態でサッカーボールが間に入ってしまうほどでした。身長も、小学校1~2年生の頃は大きい方でしたが、成長しても足が曲がってしまうため、身長は伸びません。身長が低く、細身の子どもと一緒になると、私は太っているように見えてしまうことが嫌でした。この頃も装具は夜だけ着けていたのですが、曲がっている足を真っ直ぐに矯正しようとしているので、眠れないほどの痛みがありました。

傷ついたり悩んだりしていたとき、姉の存在が大きな心の支えになりました。足が曲がっているせいでかわいい服を着られず、周囲から好奇の目で見られ、ガラスに映った自分の姿を目にするたびに「みんなは足がまっすぐなのに、何で自分は曲がっているのだろう…」といつも悩んでいました。足が曲がっていることを自分でどうしても受け入れられませんでした。そのようなとき、姉はいつも話を聞いてくれました。同じ病気で一緒に闘っている姉がいたから、今の私があると思っています。

point

  • 足の間にサッカーボールが入ってしまうほどのひどいO脚に
  • 足が曲がっている自分を受け入れられず悩んでいるときに話を聞いてくれる姉に救われる

O脚のため中学校3年生から高校3年生にかけて整形外科で骨を切る手術を受ける

好きなズボンをはけることに大きな喜び

中学校3年生から高校3年生にかけて、長期休みに合わせて骨を切る手術を計4回、通っていた小児病院とは別の整形外科で受けました。姉の存在は心の支えだったものの、曲がっている足がどうしてもコンプレックスで…。ずっと通っていた小児病院では手術ができず、O脚を補正するための運動やストレッチぐらいしかなく、思い詰めていたところ、父が手術のことや施術してくれる医療機関を探し続けてくれていたようです。中学校と高校はどちらも全寮制だったので、日常生活に大きな支障がないよう、手術は4回に分けて少しずつ受けました。

手術を受けて、足の痛みはずいぶん軽減しましたし、何よりも足が真っ直ぐになって好きなズボンをはけるようになったことが嬉しかったです。周囲から好奇な目で見られることも減り、私の性格も明るくなったと思います。ただ、歯のもろさには悩まされ、むし歯ではないのに歯の神経が壊死してしまい、神経を2~3本抜きました。父も若い頃、同じような経験をしたと聞きました。

関連ページ

point

  • 骨を切る手術を受けて足の痛みも軽減し、足が真っ直ぐになったことで性格も明るく
  • むし歯ではないのに歯の神経を抜くなど歯の悪さが悩み

成人を機に大学病院の内分泌内科へ転院

信頼できる主治医に出会う

小児病院への通院と薬物治療に並行して、発症の原因や将来的にどうなっていくのか興味があり、インターネットなどで自分の病気のことを調べていました。遺伝が原因であるなら、将来、出産したら、その子どもにも遺伝するのか、しかし私と姉の上にいる兄には病気の症状がなく、遺伝していないのはどういうことなのか、といったことを知りたいと思ったのです。結果的に、この病気は遺伝し、私や姉が将来、出産する場合、生まれてくる子どもが男の子でも女の子でも、50%の確率でこの病気になってしまうことなどが分かりました。

また、成人を機に、小児病院から大学病院の内分泌内科に転院しました。現在の内分泌内科の主治医は話をよく聞いてくださり、信頼して相談しています。また、新しい薬剤などについても色々と提案してくださり、治療についても少しずつ前に進んでいると感じています。この病気のこと、この病気による足などの痛みは、若い世代の方々にはなかなか伝わらず、つらいと思うことが多くあります。一方、年配者にはO脚で悩まれている方もいて、この病気で悩んでいる若い方であれば、同世代よりも年配者に相談すると、痛みやつらさを理解してくださると思います。

関連ページ

point

  • インターネットなどで自身の病気のことを調べ、子どもができたときに遺伝する可能性などを知る
  • 信頼できる主治医に出会うことができ、治療についても少しずつ前に進んでいると実感している

これからのこと

病気であっても様々な仕事を選択できるように

学校を卒業して就職する際、体を動かす、体力を求められるような仕事はどうしても大変です。私は現在、ほとんど座っていられる事務系の仕事に就くことができています。学生のうちに勉強を頑張って、仕事の選択の幅を広げておくことがとても大事だと思います。

また、これまでO脚の方とお会いしたことがありません。同じ病気の方とお話しできるような機会があれば、ぜひ参加したいと思っています。

この記事の監修ドクター

伊東 伸朗 先生

伊東 伸朗先生

  • 東京大学医学部大学院医学系研究科 難治性骨疾患治療開発講座 特任准教授(研究室HP)
  • 東京大学医学部附属病院 骨粗鬆症センター 副センター長

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